彦市   » 人類生存の危機 » 技術と市場が漁業を破壊する

「8本の網で2トン以上の魚を捕ったことがあった。いまでは同じ量を捕るのに80本は必要だろう。当時、春にはタラが1尾平均おそらく10kgから20kg近くはあった。それがいまでは2kgから4kgくらいのものだ」-大西洋北東部のジョージバンクを漁場にする漁師のコメントである。

魚の名前と数字を変えれば、世界中の漁師から同じような言葉が聞かれるかもしれない。

 1990年、世界の商業用海産魚の総漁獲高は400万トンも減少した。

漁獲高がこれほど著しく減少するのは72年以来はじめてのことである。

これが継続する成長曲線上の一時的な落ち込みにすぎないのか、それとも行き過ぎ=振動の行動様式の最初の下降なのか、あるいは破局のはじまりなのか、何年か経ってみないとわからない。

しかし、魚の捕り過ぎを示す証拠は多数あり、なかには局部的な漁業の破局を裏づけるものもある。

国連の食糧農業機関(FAO)では、従来の海洋資源では、年間1億トンを超える商業用の漁獲は維持できないと考えている。

これは、89年のピーク時に達成された漁獲高にほぼ相当する。

 FAOが監視する19の漁業区域のうち9つで、持続可能と推定される漁獲高の下限をすでに超えている。

全米魚類・野生生物財団によると、アメリカ合衆国の水域では、魚の主要14種類(世界の漁獲高の20%を占める)がひどく枯渇しており、漁業を全面的に中止したとしても回復するのに5年から20年はかかるという。

通常30年間生存し、約680キロにまで成長するクロマグロの数が、1970年から90年の20年間に94%も減少している。

フロリダキーズ(フロリダ諸島)沖でのエビの捕獲量も、年間約2900トンから約1100トンに減っている。

インドのケララ州の沿岸では、漁船の数が維持可能な水準を60~100%上回っていると推定される。

ノルウェー水域では、商業用として好まれる魚が姿を消しつつあるなか、さほど好まれない魚を代わりに捕ることで、総漁獲高はかろうじて維持されている。

 地中海漁業協議会は次のように語っている。

人間活動の海洋環境への影響が、いまとくに重要な世界的問題であることが示唆されている。

その最も直接的な影響は、地中海や黒海のような閉鎖水域あるいは半閉鎖水域においてまず現れる。

ここでは、ほとんど無規制の漁獲行為という昔からの要因に加えて、人口増加、そして工業、農業、観光といった産業分野も漁業に影響を与えつつある。

 世界の漁業産業は、かなり自由で活気ある市場を享受しており、ここ数十年のあいだに異例の技術開発も行なわれた。

冷蔵機能をもつ加工船の開発により、捕った魚を抱えてただちに帰港する必要もなく、長期間遠くの漁場にとどまることが可能になった。

また、レーダーやソナーの開発、衛星探査などによって、より効率的に魚群の居場所に到達できるようにもなった。

長さ約50キロにおよぶ流し網を打てば、深海でも大規模な漁業が経済的に行なえる。

その結果、持続可能な限界を超えるケースが増えている。

次々に生まれてくる技術は魚のストックを増強する技術ではなく、最後の一尾まで見つけて捕ろうとする技術なのである。

 ニューイングランドのトロール漁は、1983年をピークに大幅に減少した。

カレイやハドックのストックはほとんど記録的なほど少なくなっている。

タラの数も減った。

クロマグロとメカジキは枯渇した。

ニューイングランドの漁師の多くは、かなりの窮地に立だされている。

「捕れるうちに捕ってしまえ」という精神の犠牲になったわけだ。

かつては盛況のときも不況の時もあった。

しかし今回は違う、と科学者たちは言う。

漁船があまりに大きく、技術があまりにも優秀で、もはや魚が隠れ場所を失ってしまったからである。

なぜこのようなことが起きるのか、ほとんどの人は直観的に理解している。

魚は人類共有の資源である。

市場には、その共有財の捕獲をめぐって競争している人びとに、過剰な捕獲を思いとどまらせるような矯正的フィードバックループが存在しないからである。

それどころか、まったく逆に、漁場に一番乗りして多く獲った者に積極的に報酬を与えるのである。

市場が価格の上昇というかたちで魚の不足を伝えようとしても、裕福な人びとは喜んでその値段で買おうとするだろう。

東京の寿司市場では、クロマグロが1キロ当たり200ドル以上もするだろう。

しかし、この高値も魚の不足を伝えるシグナルや警告の役割を果たさず、魚資源の節約が促されることはない。

逆に、枯渇の進むクロマグロの捕獲をいっそう奨励することになる。

しかも、市場はこの魚を食糧として最も必要とする人びとに分配していない。

飢える人びとは市場で力をもっていないからである。

これまで、水揚量の増えた分は、まずそれを買える国のものになっていた。

これは警戒すべき傾向である。

というのは、世界の漁獲量のうち購買力の大きい先進諸国に絞りとられる分量がますます増え、もっと魚を必要としている発展途上国に残される分量が少なくなるという潜在的な危険を暗示しているからである。  生態学者であるポール・エーリックは、かつて、ある日本人ジャーナリストに対して、日本の捕鯨産業がその富の源泉である鯨を絶滅させようとしていることに驚きを表したことがある。

その時、そのジャーナリストは彼にこう答えた。

「あなたは捕鯨産業を鯨の保全に関心を抱く機関のように考えておられるようだが、実際にはむしろ、できるだけ高い投資収益をあげようとする莫大な資本(金銭的な)だと考えたほうがいいでしょう。10年間で鯨を絶滅させても15%の利益をあげるか、持続可能な捕獲高で10%しか利益をあげられないかとなれば、10年で絶滅させるほうを選ぶでしょう。その後は、また別の資源に資本を移し、それを根こそぎにするのです」。

(ボルネオ島北東部のサバの熱帯林を伐採している企業が同じような発言をしているのを、われわれの友人が聞いている。)

 資源の絶滅に余念がない市場のプレーヤーたちは、まったく理に適った行動をしているのである。

システムのなかで彼らが占める立場から見た報酬と制約を考えれば、彼らがやっていることはきわめて妥当である。

問題は人にではなく、システムにあるのだ。

共有の資源を管理する市場システムが規制を受けなければ、過剰消費と破壊は避けがたい。

資源を守るには、何らかのかたちの政治的制約を設けるしかないが、その成立はなかなか難しい。

 漁業生物学者たちは、バルト海のタラのストックが壊滅状態にあるため、翌年はタラの商業捕獲を全面的に禁ずることを提言した。

ワルシャワで聞かれたバルト海漁業委員会はこの勧告を退け、漁業割り当て量の削減というかたちで合意を見いだそうと努力した。

しかし結局、いかなる協定も成立しないまま会議は終わった。

 世界の魚資源を破局から救うには、市場や技術以上のものを必要とする。

限界という概念を欠いたまま用いたのでは、市場も技術も行き過ぎを生む道具になってしまう。

一方、限界の枠内で、共有された長期的価値観を指針に用いれば、市場や技術開発の影響力は、何世代にもわたって持続可能な豊富な漁獲をもたらす一助となるだろう。

[引用資料] b6



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初版日時: 2018-10-13 (土) 00:38:37
最終更新: 2018-10-14 (日) 09:53:53 (JST) (31d) by hikoichi