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グローバリズムとは、つくづく退屈なものだな、と思う。

 それは 「選択肢のない豊穣」 である。

 グローバリゼーションが浸透している社会では、次から次へと新商品や新サービスが開拓され、あっという間に、それが全域を覆う。

 しかし、いざ手にとって見ると、それらはみな基本的にはのっぺりした単一なものでしかないことが分かる。

 豊富な選択肢がありそうに見えながら、実は何を選んでも、けっきょくは同じ物、同じサービスしか手に入れることができない。

 だが、それこそが、世界マーケットに通用する商品の条件なのである。

 グローバリズムが大地を覆っていく国々では、商品やサービスのみならず、都市の景観も、人々の生活様式も均質化されていく。

 そして、多くの場合、それは 「快適さ」 と 「便利さ」 を同時にもたらす。
 われわれは、その 「快適さ」 や 「便利さ」 と引き換えに、どこの地方に行っても変わらない “退屈な風景” を手に入れる。

 この前、テレビの海外ニュースを観ていて、驚いた。

 あの 「反米」 を掲げる宗教戒律の厳しい国イランですら、その繁華街では、今 「マクドナルド」 そっくりのハンバーガーショップが建ち並び、人々はそこでコカ・コーラを飲み、ハンバーガーをむさぼってトークに花を咲かせるという。

 そして、アメリカ製のパソコンや i -pad のようなタブレット型コンピューターがどこからともなく流れ込み、その販売店は欧米のアップルストアのような景観を示しているとか。    欧米文化に親近感を持つ人々は、その光景を 「自由の勝利だ」 と歓迎するだろう。

 しかし、そこから見えてくるものは、ものすごい勢いで広がっている “均一化” なのだ。

 世界中が、みな同じ風景に染められていく。

 まさに日本もそうなっている。

 別に欧米系のグローバル企業が貪欲に日本のマーケットを侵食している、 … というつもりはない。

 日本の大資本が関与して行う “街づくり” が、もう一種の “グローバル化現象” を起こしているのだ。    先月のはじめ、カミさんと二人でキャンピングカーに乗ってキャンプに行った。

 帰りに、高速のインター近くに新しくできたショッピングモールを発見して、そこで食事した。    中央に広大な駐車場があり、それをぐるりと取り囲むように、さまざまな店舗が並んでいた。

 イタ飯屋、中華料理屋、焼肉屋、ハンバーガーショップ、甘味処などの飲食店のほか、ドラッグストア、ホームセンター、美容院、アパレルショップ、マッサージルーム、銀行まである。    店の構えがみなゆったりしているので、せせこましい雰囲気がない。

 しかも駐車場が広いので、キャンピングカーのようなクルマを持っている人間にとっては止める場所を考えなくてもすむのもありがたい。    イタ飯屋に入った。

 店内は清潔で、従業員の対応はていねい。

 料理はうまくて、しかも安い。    店を出てから、ホームセンターをぶらぶらし、マッサージの料金が安かったので、30分ほど肩と背中を揉んでもらった。    マッサージルームを出て、喫煙所でタバコを吸いながら、思った。

 この快適さに慣れてしまうと、もうこれ以上、他の観光地を回ろうという気も失せてくるだろうな … と。    しかし、それほど充足した空間なのに、その光景を観ている自分は、実はちっとも楽しくない。    確かに、駐車場にクルマを止めるのも楽で、店舗はすべて清潔で、買い物にも便利で、それらを統合する景観はそこそこ小ぎれいに見える。    何が不満なの? と、自分で自分に問う。

 答が出て来ない代わりに、その空間を覆う得体のしれない空虚感が心の底に溜まっていく。

 そして、漠然とした 「閉塞感」 がどんどんどんどん募ってくる。エリア内のいちばん奥にいる人間が、豆粒ぐらいにしか見えないという広大な敷地を有しているにもかかわらずである。    つまり、そこは、すべてが揃った広大な空間のように見えるけれど、実はエリア内で自己完結した孤立空間だったのだ。    当然、エリアの外には、それと異なる世界が広がっている。

 しかし、エリア内にいる限りは、それが見えない。

 エリア自体の広大さと、便利さと快適性に慣らされて、利用者にとっては、それが “世界のすべて” に思えてくる。    「ああ、グローバリズムって、こんなものかもしれない」 と、ふと思った。

 グローバリズムとは、「閉塞感」 を、 「開放感」 に見せかけるマジックのことだったのだ。  

 現在、「グローバリズム」 という言葉は、主に経済用語として理解されている。

 Wikipedia などでは、

 「多国籍企業が、国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易、および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを指す」 と説明しているくらいだから、一般的には、 “国家間を超えた経済運動” のことだと思われている。    しかし、それは、経済運動だけを意味しない。

 そのような “地球規模の経済活動” がどんどん勢いを得ることによって、それぞれの固有の文化が侵食され、地球上のどの国にも同じような景観が広がっていくことを意味する。    もっと簡単にいえば、「グローバリズム」 とは、それぞれの地域的な固有性を排除して、全国どこにおいても同じ商品・同じサービスを安定供給するシステムの総称である。

 それは必然的に 「画一性」 「均質性」 「同一性」 をもたらすが、代わりに 「快適性」 「安定性」 「清潔さ」 などを保証する。    画一的にものごとを進めれば、効率は良くなる。
 企業は、その効率アップによるコスト減を武器に、さらに商品単価を下げながら、消費者に与えるサービス内容を厚くしていく。    そうなると、それまでの地場産業はひとたまりもない。    生活者の次元で考えると、私だって、結局は安くて、便利で、快適な方になびく。

 ドライブ中に食事どころを探すにも、駐車が難しそうで、料理がうまいかまずいか分からないような地元ドライブインを選ぶより、きれいで、広くて、名前の知っているファミレスが並ぶショッピングモールの方に足が向く。

 そして、すでに知り尽くしたサービスを受け、満足して店を出る。    結局は、多くの人が、画一的であることなど気にせず、快適な方を選ぶ。

 それは、消費者として、ある意味で健全な判断だから、当然のことといえる。    しかし、新しくできた郊外型大規模ショッピングモールでは、快適なサービスは得られたとしても、「地元の顔」 は見えない。

 そこには、地域の特色を伝えるような “情報” は何もなく、あるのは、全国のどこにでも手に入るその商品の快適さ、おいしさ、便利さのみ。

 つまり、大資本が用意した営業的な “コンフォート (快適) 感” だけなのだ。    でも、それは虚無的なコンフォート感である。

 人が集まり、子どもやペットの声が広場にこだまし、親たちの楽しそうな笑顔が並ぶ広場も、夜になると “無人の野” になる。    駐車場にはチェーンがかけられ、防犯のためのライトだけがともる広大な敷地は、 “整地された空洞” にすぎない。

 街の商店街ならば、夜になっても、店舗の奥で眠る店主の寝息が聞こえる。

 しかし、ビジネスのためだけに設計されたショッピングモールは、夜になると、巨大な廃墟となる。    そういう場所で働く従業員は、基本的にパートなどの非正規雇用だろうし、そこから上がる収益は地元に落ちることもなく、親企業を潤すことだけに使われるだけだろう。

 それは、まさに、地球規模で蔓延していくグローバリゼーションの縮図である。    私は、そのように広がっていくグローバリズムの風景を、索漠たる思いで眺める。    私たちの眺める世界はどんどん便利で、快適で、清潔なものになっていくが、その代償として、必ず 「どこかで見たような」 「どこにもであるような」 味気ないものに染め上げられていく。    このようなグローバライズは、郊外型ショッピングモールに限った話ではない。

 実は、映画やドラマやバラエティ番組のようなものにおいても、なんだか同じことが進行しているように思えて仕方がない。    このところハリウッド製SF映画や、ファンタジー映画や、アクション映画が毎月のように日本でも公開され、それが 1年後ぐらいにはテレビのBS放送などで毎日のように放映される。

 少し時間がとれたときなどは、テレビの前でどれを見ようかと、迷う。    しかし、どれを選択しても、内容はほとんど同じなのだ。

 パターン化された勧善懲悪のストーリーを、CG画面の映像的インパクトで補うような、反射神経だけでつくられたような映画ばかりが並んでいる。    私は、それも一種のグローバリズムの反映であるかのように思う。

 民族や文化の差異を超えて、全世界を相手に興行収益をあげるためには、言葉が通じてなくても理解できるような “類型化” は避けて通れないからだ。    グローバリズムとは、「選択肢のない豊穣」 である。

 いろいろなものを選べるようでありながら、選んだものは、結果的に、選ばなかったものとまったく同じ。

 つまり、選択の自由というものは、もうそこにはないのだ。    そして、そのことが、現在われわれを覆っている 「閉塞感」 の一部を構成しているのではないかと思う。    だが、… たぶん、やがてわれわれは、それにも慣れる。

 グローバリズムが全地球上を覆い尽くしたときに、われわれはその外に広がっていた世界を思い出す手がかりも失うからだ。
 ある意味で、「資本主義」 の運動そのものがそういうものであったし、さらにいえば、人類が “文明” というものを持ったときに始まっていたことなのかもしれない。    [引用資料] s29



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初版日時: 2017-03-06 (月) 11:10:33
最終更新: 2018-02-15 (木) 13:06:06 (JST) (3d) by hikoichi