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二宮尊徳の家系図.jpg

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1歳 天明2年 西暦1787年7月23日

 相模の国 足柄上郡栢山村(後に桜井村字東村山となる)で出生

4歳 寛政2年 1790年

 弟 友吉が誕生

13歳 寛政11年 1799年

 次弟 富次郎が誕生

 父の利左衛門が闘病3年で病死 享年48歳 

14歳 寛政12年 1800年

 生計に困り、負債を償却するため土地を売却した

15歳 享和元年 1801年

 貧困極まり貧乏生活で困労状態となる。正月の準備が出来なかった

16歳 享和2年 1802年

 母のよしが病死 享年36歳

 酒勾川が氾濫して田畑が砂で埋まる。

 2人の弟は母の実家に引き取られ、自分は伯父萬兵衛の家に入って一家離散

20歳 文化3年 1806年

 生家の廃屋再興を決心して、破損修理して独居生活し、亡き父の質入れ田畑を買い戻した

21歳 文化4年 1807年

 弟 富次郎が死亡 享年9歳

22歳 文化5年 1808年

 母の実家が困窮状態となったので、自分の田園の一部を以って助成した

 二宮総本家の再興を志願して、基金設定を講じて金1円を積み立てた。これが仕法の根源たる報徳会積金の始まりとなる

23歳 文化6年 1809年

 自作農の傍らで賃仕事を始めた

''24歳' 文化7年 1810年

 江戸へ出立つ。2ヶ月後に帰宅するも、すぐに伊勢参宮し、京都・奈良・大阪・金比羅を順拝

27歳 文化10年 1813年

 服部家に入り若頭として、学業の傍ら業務に励む

28歳 文化11年 1814年

 服部家の家政整理について諮問を受けて、多額の負債を償却するには分度を立てることに在りとして、その方法を計画。しかし、充分には実行されず

29歳 文化12年 1815年

 服部家から暇を乞い帰宅した

31歳 文化14年 1817年

 きの(19歳)と結婚

32歳 文政元年 1818年

 弟の常五郎(友吉が改名)が萬兵衛の本家三郎左衛門の養子となる

33歳 文政2年 1819年

 長男徳太郎が出生したが、1ヶ月足らずで死亡。その直後に、妻のきのから離別を乞われて離婚した。その後1ヶ月して、なみ(16歳)と再婚

34歳 文政3年 1820年

 伊勢神宮と高野山を参拝

 閣老となっていた領主大久保忠真公から、年貢米の領収桝の改良等の功績を賞して、一ヶ年の貢米を免じられた

35歳 文政4年 1821年 

 宇津執之助知行所桜町4千石の復興調査を命ぜられる。固辞再三の後に調査に従事した

 嫡男 彌太郎誕生

 小田原候より貸し下げの八朱金を以て、服部家第1回仕法を完了した

36歳 文政5年 1822年 

 忠真公が藩学を興した。当時の小田原藩は財政困難であり、京阪の富豪からの借金返済を延期してもらう状況にあった。そこで、翁は忠真公に抜擢されて、支族宇津家の興復を命じられた

 そして、10年間に亙る桜町の租入について、仕法を委された。翁の待遇は名主役格であった

37歳 文政6年 1823年 

 仕法としては、無利息金の貸与、貯金の奨励、荒地の開墾などで、翁が日夜誠意を尽くした

38歳 文政7年 1824年 

 酒勾川の洪水があり、二宮常五郎(弟友吉)に土地の一部を与えた

 長女 ふみ子誕生

39歳 文政8年 1825年 

 関東が凶作となり、桜町の興復が困難になったので、辞任を申し出たが代官が許さなかった。

40歳 文政9年 1826年 

 翁は組頭格に進級して桜町の主席となった

42歳 文政11年 1828年 

 領内難局に陥り、桜町の興復に関して小田原候に上申書を提出した。常州の青木村から名主仕法を呼び寄せてもらった

43歳 文政12年 1829年 

 成田不動尊に断食祈願した。その後、事業の進展があり、頗る順調に回復した

44歳 天保元年 1830年 

 宇津家仕法の10年が満了したので、余米426俵を大久保候に納めた。忠真公は、この米を小田原領民の救済向けとして別途保管した

45歳 天保2年 1831年

 正月 日光参拝で大久保公と面談した際に、汝の道は「以徳報徳」に似たりと称せられた

49歳 天保6年 1835年 

 細川氏の領土である谷田部と茂木の仕法を懇願されてた。君臣の大道を説いて、宗支の関係を円満にして、遂に分度を立てて、谷田部42村と茂木27村発業の基礎となった

 翁の15年間に及ぶ努力が実り、大久保忠真公の直筆の功労賞を受けた。更に引き続き委任を受けた 

50歳 天保7年 1836年 

 全国に亙る大飢饉が発生して、小田原藩では貯蔵米を放出して、領内の民を救済した。

52歳 天保9年 1838年 

 小田原領一園の仕法取扱いを命じられた

53歳 天保10年 1839年 

 中村藩士 富田高慶(27歳)が桜町を訪ねて教えを乞い願ったが許さず。しかし、3ヶ月粘られて門下生として受け入れた

54歳 天保11年 1840年

 駿河の藤曲村と御殿場村に仕法を行った。

 桜町に帰って以来、門人が増加して、在塾者が100人を下らない状態となる

55歳 天保12年 1841年

 幕府の勘定奉行として江戸へ出向した

56歳 天保13年 1842年

 幕府御番帳人取扱を拝命して、御普請役格に召し出された

 大久保公から御上下御小袖を下賜された

 利根川分水路見分け目論見御用を仰せられた

 大久保公の邸で、興国安民の法を説いた

 御勘定所の御料所手附となる

57歳 天保14年 1843年

 小田原仕法組合を創立(小田原報徳社の発業)

 小名浜・東郷・真岡の3村の陣屋手附けを命じられた

58歳 弘化元年 1844年

 日光神領荒地開拓調査計画の上申を命ぜられた。(3年後に日光再興策である富国方法論60巻を作成した。これは仕法の雛形でもあった)

 相模克講社を創立

60歳 弘化3年 1846年

 小田原藩政の方針が変わり、「故障有之」として報徳仕法を廃止させられた。また、領民が二宮翁宅に往来することも禁じられた。

 この頃、二宮翁を殺すとの噂があり、入浴中に槍で刺されそうにもなった

61歳 弘化4年 1847年

 一家で東郷陣屋に転居した。この頃、各地で報告結社の動きがあった

64歳 嘉永3年 1850年

 福住正兄が師門を辞して、湯本の福住家を相続した

66歳 嘉永5年 1852年

 長女のふみ子が富田高慶に嫁いだ

 下館領内の分度が確立して仕法が開始された

67歳 嘉永6年 1853年

 長女 ふみ子が死亡した

68歳 安政元年 1854年

 今市の新築官舎に一族で転居した

69歳 安政2年 1955年

 日光法親王より羽二重を賜った

 河内郡森村で仕法を行った

 10月20日 二宮翁病死。 

 


 


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初版日時: 2017-11-16 (木) 19:36:40
最終更新: 2018-10-14 (日) 12:19:33 (JST) (32d) by hikoichi