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2008年4月27日

 アメリカ政府は、北朝鮮に対する制裁を解除するかどうかの瀬戸際に来ている。

以前の記事に書いたように、米朝間では4月8日、北朝鮮がシリアに核兵器技術を供与したというアメリカの主張を北が容認する見返りに、アメリカは北をテロ支援国家のリストから外して経済制裁を解除することで合意した。

米政府は4月30日までに、今年のテロ支援国家のリストを発表する予定になっており、米朝合意が履行されれば、今年のリストには北朝鮮は載らないことになる。

 米議会では、北朝鮮に譲歩するブッシュ政権への強い非難が巻き起こり、制裁解除を阻止する動きが議会から出ている。

だが同時に、制裁が解除されない場合、北朝鮮はシリアに対する核兵器技術の供与を明確に否認するだろう(おそらく事実として、北はシリアに核技術を供与していない。ここ数年、シリアは対米関係の改善を最重要目標にしており、北から核技術を買うような馬鹿なことはしないはずだ)。

 北朝鮮がシリアに核技術を供与していなかったとなると、昨年9月にイスラエルが空爆したシリアの「軍事施設」は何だったのかという話になり、シリアを空爆したイスラエルの責任が問われることになり、国際社会におけるイスラエルのイメージが一層悪化する(そもそも当初から、イスラエルは空爆の件が表沙汰になることを避け続けてきた。この件で大騒ぎしているのはブッシュ政権の方である)。

 事態が世界の目をここまで集めてしまうと「北朝鮮がシリアに核技術を供与し、イスラエルはその施設を空爆した」という話にした方が、イスラエルにとって都合が良いとも考えられる。

どちらに転ぶかわからないが、この件はあと数日、4月30日までに結論が出る。

 もしアメリカが北朝鮮への制裁を解除したら、次は2005年の6者協議の合意に基づき、米朝と日朝の関係改善の話になる。

日米と北朝鮮との関係が正常化したら、6者協議は東アジアの集団的安全保障の枠組みとなり、在韓米軍と在日米軍の大幅な空洞化、もしくは撤退が進展する。

今後、新たな難問が出てきたり、事態の行きつ戻りつがあるかもしれないが、長期的な傾向としては、東アジアにおけるアメリカの影響力は低下し、中国中心の国際体制がしだいに強くなる。

▼投機による石油高騰を放置する米政府

 重要なのは、アメリカの影響力低下は、アメリカ自身が誘発したという点だ。

03年に6者協議が始まって以来、米政府は、6者協議の主催役を中国に押しつけ、東アジアで中国の影響力が拡大するように事態を動かしている。

中国とロシアは、ユーラシアの集団安保体制である「上海協力機構」を作り、インドやイランを招き入れ、アフガニスタン復興にも首を突っ込んでいるが、米政府は、上海協力機構に対して意図的と思える軽視の態度をとっている。

 また米政府は、石油の国際価格を決めているアメリカの石油先物市場でさかんに投機が行われ、その結果石油価格が高騰し、ロシアやイラン、ベネズエラなどの反米的な国々が強化されているのに、自国の石油相場の投機を放置している。

アメリカの石油先物市場での投機的な高騰は、2006年9月にニューヨーク商品取引所(NYMEX)で先物取引規制が緩和された後、拍車がかかった。

 ブッシュ政権は、意図的に、ロシアや中国、イランなどを強化している疑いがある。

世界の覇権体制を、アメリカ一極の状態から、アメリカ・EU・ロシア・中国・イスラム諸国(GCC+イラン)などが並び立つ多極的な状態に変えようとしている疑いがある。

 アメリカが北朝鮮への制裁を解除したら、日本は北朝鮮と国交を正常化せねばならない。

日本はしだいに対米従属を許されなくなり、中国を中心とする「新冊封体制」の中で生きねばならなくなる。

中国と朝鮮が大嫌いな最近の日本人にとって、悪夢のような話である。

それなのにマスコミは、米政府が世界を多極化して日本を見捨てようとしていることを全く指摘せず、外務省も気づかないふりをしている。

 米議会の反対を受け、ブッシュ政権が5月以降も引き続き北朝鮮をテロ支援国家扱いし続ければ、当面は、日本は北朝鮮敵視・対米従属を続けられる。

しかしアメリカの多極化戦略はしだいに露骨さを増しており、日本がアジアの方に押しやられるのは時間の問題だ。

事態がここまで進んでしまうと、来年アメリカが次の政権に変わっても、大幅な逆戻りは期待できない。

民主党政権になると不透明だが、共和党マケイン政権になったら、現政権の戦略が継承される。

 歴代の米政界の傾向を見ると、ホワイトハウス(大統領府)は多極主義をとる傾向が強い。

特に共和党はそうだ。逆に米議会では、多極化を阻止し、米英中心の覇権体制を維持しようとする傾向が強い。

ロックフェラー家は中国が好きなので多極主義の感じがする。

ロックフェラーの影響下にあると思われるシンクタンク「外交問題評議会」(CFR)も、内部にいろいろな意見があるように見せかけつつ、本質的には多極主義だろう。

 戦後の米政権の中で最も露骨な多極化をやったのは1970年代初期のニクソンだが、大統領補佐官としてニクソン政権の外交政策を切り盛りしたキッシンジャーは、1964年から5年間、CFRで中露との関係改善のやり方を研究した後、1969年の大統領選挙でニクソンの顧問となって政権入りし、中露との関係改善を実行した。

 米政府(大統領府)は、ニクソンの前のジョンソン政権から、ベトナム戦争に巨額の戦費をつぎ込み、財政を大赤字にしたり、ドルの増刷を続けてインフレをひどくしていたが、ニクソンはその集大成として財政とドルの破綻を招き、1971年に金ドル交換停止を実施し、ドルの通貨覇権を自滅させた。

その後はイギリスが主導し、日独にドル救済を手伝わせ、金本位制と切り離したかたちでドルの覇権を再生した。

イギリスは、米大統領から頼まれもしないのに、アメリカの覇権を立て直した。

米英中心主義(冷戦維持派)が強い米議会は、ウォーターゲート事件を問題化させ、ニクソンを辞任に追い込んだ。

▼イギリスの戦略を全否定した米ウィルソン

 CFRは第一次大戦後の1921年にニューヨークで設立されたが、活動自体は、自らをCFRと命名する前の、第一次大戦中から行っていた。

彼らの最初の任務は1917年、150人の著名な学者を集め、第一次大戦後にアメリカが主導して世界の政治体制を作り替える構想を練ることだった。

 この構想立案作業は、ウィルソン大統領からの依頼を受けて行われるかたちになっており、ウィルソンはCFRからの報告書を受け取った後、1918年1月に、報告書の要旨を「ウィルソンの14カ条」として発表した。

当時、第一次大戦は終結の10カ月前で、すでにアメリカはイギリスの味方、ドイツの敵として参戦していたが、この14カ条は、ドイツを休戦協定に誘い込むための提案となっていた。

 第一次大戦は、イギリスがドイツを潰すために行われた。

イギリスは、産業革命を先にやって覇権国になったものの、後から産業革命をやって大国化したドイツに追い上げられていた。

ドイツは、自国から東欧・バルカン半島・トルコを通って中東に至る、陸側からの影響圏の拡大を目指し、地中海の海側からバルカン半島・トルコ・中東に、すでに影響力を拡大していたイギリスと衝突した。

工業・軍事技術の取得能力は、イギリス人よりドイツ人の方が高かったので、イギリスとしては、ドイツを壊滅させ、恒久的に弱体化しておく必要があった。

イギリスは、あらかじめロシアやフランスと組んでドイツ包囲網を作った上で、バルカン半島諸国間の対立を、ドイツ潰しの大戦に発展させた。

 このような経緯だったので、第一次大戦後にイギリスが目指すところは、ドイツの影響圏になっていた東欧やトルコ、ベルギーなどを、イギリスの影響圏として分捕ることだった。

世界の貿易体制も、イギリスなど戦勝国に有利、ドイツに不利な形にしたかった。

またロシアでは、第一次大戦中に革命が起こり、英仏と親しかったロマノフ朝が倒されて共産党政権になり、戦争を途中で放棄し、ドイツとの敵対をやめた。

イギリスは戦後、共産党のロシアに制裁を加えたかった。

 ウィルソンの14カ条は、こうしたイギリスの戦略を全否定する内容だった。

まず1条で、外交の公開・秘密条約の禁止を掲げ、イギリスが好む秘密協定を多用した外交を否定した。

2条と3条では自由貿易体制を提唱し、4条では国際的な軍縮、5条では植民地の独立を呼びかけた。

6条で共産党政権のロシアへの制裁を禁じ、7条はベルギーの独立、10条と11条では東欧諸国の独立、12条ではオスマン帝国崩壊後のトルコや中東での民族自決、そして14条で戦争再発防止・諸国の独立維持のための国際機関(国際連盟)の設立を提唱した。

▼イギリスに出し抜かれたベルサイユ会議

 当時のアメリカは、イギリスに対して優位な立場にあった。

イギリスは1914年に第一次大戦を開始したがドイツに勝てず、1917年3月にロシア革命が起きてロシアが戦線離脱した後、負ける可能性が出てきた。

イギリスは、中立国だったアメリカに泣きついた。

戦後の世界体制を決める権限をあげるから、イギリスに味方して参戦してほしいと持ち掛けたと推測される。

 ロシア革命の翌月にアメリカは参戦し、その後、ニューヨークでCFRの前身となる150人の専門家評議会が作られて戦後の世界体制が練られ、1918年1月にウィルソンの14カ条が発表され、同年11月の終戦後、翌1919年1-6月にかけて行われたベルサイユ会議(パリ講和会議)で、国際連盟の設立など、戦後の世界体制(ベルサイユ体制)作りが行われた。

ウィルソンは自ら大西洋を渡航し、CFR前身の評議会メンバーを引き連れてパリに乗り込み、欧州に2カ月も滞在した。

現職の米大統領が欧州を訪問するのは、これが初めてだった。

 とはいうものの、ベルサイユ体制は、アメリカの好む形にはならなかった。

それまでの約100年間、覇権国として世界各国と渡り合い、権謀術数が渦巻く欧州で覇権を維持してきたイギリスは、欧州から遠く離れた北米大陸の新興国で外交経験が少ないアメリカより、外交技能がはるかに高かった。

 イギリスは、フランスなど他の諸国を巧みに誘導し、アメリカの構想を突き崩し、ウィルソンの14カ条のうち実現したのは4カ条だけだった。

国際連盟は設立されたが、それはアメリカの構想を実現するものというより、それまでにイギリスが作っていた国際社会(イギリス主導で列強が談合して世界を支配する体制)の焼き直しとなった。

アメリカは勝敗を鮮明にしない講和を目指したが実現せず、イギリスの策略の結果、ドイツは過重な戦後賠償を背負わされた。

 アメリカは結局、国際連盟に加盟しなかった。

き、その理由は「孤立主義」の傾向が強い米議会(共和党が多数派)で加盟に反対する意見が席巻し、ウィルソン(民主党)が調印したベルサイユ条約を議会が批准しなかったからだとされている。

しかしよく見ると、議会は自分たちが持っている開戦の権利を国際連盟に奪われることを恐れたのに対し、ウィルソンは議会への根回しをせず、条約を一語一句変えずに批准することだけを議会に求めたので、否決されるのは当然だった。

条約を批准しなかったのは、ウィルソン自身の意思だったという指摘がある。

 パリ講和会議の後、1919年5月末に、講和会議に参加したアメリカの専門家たちが、イギリスの専門家たちと会合を開き、この場で、アメリカでCFR、イギリスで王立研究所(チャタムハウス)が同時に発足することが決まった。

当初は、CFRとチャタムハウスを姉妹機関とする構想が出されたが、それは否決され、代わりに、公式な姉妹機関ではなく非公式な提携関係が作られることになった。

 私が見るところこれは、イギリスが、自国に不都合な構想を打ち出すアメリカのCFRに提携を持ち掛け、CFR側と緊密な関係を継続的に持つことで、CFRを構成する人々の考え方をイギリス好みのものに変質させようとする「入り込み作戦」である。

この後、CFRやその他のアメリカの政策決定に関与する機関では、イギリスと意見をすり合わせた上で世界戦略を決定する傾向が強くなった。

イギリスの入り込みによって米英間の「特別な関係」が生まれ、アメリカは米英同盟を基軸とした米英中心主義の世界戦略へと転換していった。

▼CFRと覇権ころがし

 CFRが策定したウィルソンの14カ条には、イギリス中心の世界体制を崩そうとする意図が感じられるが、CFRはなぜこのような戦略をとったのだろうか。

そもそもCFRとは何者なのか。

 CFRの100年近い歴史を見ると、最初はモルガン商会(JPモルガン、ニューヨークの金融機関)の影響が強く、その後はロックフェラー家(石油王、金融業)の影響が強くなったと指摘されている。

 またCFRの初代会長であるポール・ウォーバーグは、ドイツからアメリカに移民してきたユダヤ人で、ニューヨークの銀行業で大成功した人物だ。

 これらのことから、CFRとは、ニューヨークの資本家たちが作った組織であると考えられる。

私は以前から「覇権の多極化を求めているのは、米英による単独覇権体制を崩すことで国際的な投資の自由を確保しようとする資本家たちではないか」と考えてきた。

ニューヨークの資本家たちが作ったCFRが、第一次大戦後にイギリスの覇権体制を崩すことを画策し、その後は1970年のニクソン政権以降の歴代の米共和党政権による自滅的な多極化策の黒幕となったことは、私の考察の裏づけとなっている。

 ニューヨークの資本家には、ロックフェラー家などユダヤ人でない人々も混じっているものの、その主力、特に金融業者はユダヤ人である。

ニューヨークのユダヤ人金融業者の多くは、1850年代前後、ドイツやイギリスなどの欧州諸国から、高度成長を開始したアメリカに投資するため、ニューヨークに移民してきたり、支店を出したりした。

 欧州各国で中世以来、金融業を営んできたユダヤ人は、各国の王室に資金を貸し出すことを通じて、宮廷政治を動かす「宮廷ユダヤ人」となった。

彼らは金貸しだけでなく、手形発行など、遠隔地間の貿易代金の決済業務も行っており、ユダヤ人どうしで、中東や北アフリカなどの地中海周辺からロシア、北海、スカンジナビアまでの広範囲の地域に金融貿易ネットワークを持っていた。

 宮廷ユダヤ人は、野心のある国王に協力して、スペインやポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、ドイツといった欧州諸国が、自国の影響圏と貿易圏を拡大し、覇権国を目指した際、黒幕的に協力した。

スペインの覇権が衰退すると、スペインにいた「スファラディ(スペイン系)」の宮廷ユダヤ人たちは、オランダに移転してオランダを覇権国にのし上げ、オランダが衰退し始めるとイギリスに移ってイギリスを覇権国にしてやった。

宮廷ユダヤ人たちは「覇権ころがし」をしながら金融事業を続け、富を蓄え続けた。ドイツ、イギリス、フランスなどで兄弟が分担して事業を展開していたロスチャイルド家は、その最有力者の一つだった。

ロスチャイルドも19世紀後半、ニューヨークに進出した。

 私は、ユダヤ人を中心とするニューヨークの資本家たちが、アメリカを第一次大戦に参戦させ、戦後の世界体制をアメリカが決定することを画策したのは、イギリスからアメリカへの「覇権ころがし」の試みだったのではないかと推測している。

 ニューヨークの資本家たちは、世界の中心をイギリスからアメリカに移転させ、同時にイギリスだけが覇権国である体制を壊して、アメリカの他にいくつかの地域大国が並び立つ多極型の世界体制を目指したが、捨てられかけたイギリスが粘って延命策を続けた結果、覇権ころがしは途中で挫折して意外に時間がかかり、ニューヨークの資本家とイギリスとの、現在までの100年の暗闘になっているのではないか。

そのように考えると、説明がつくことがいくつもある。次回は、そのことから書きたい。



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