彦市   » 近代の国際歴史観を紹介 » 覇権の起源

2008年8月14日

 国際政治を考える際に「覇権」(ヘゲモニー、hegemony)という言葉はとても重要だ。

国家間の関係は、国連などの場での建前では、あらゆる国家が対等な関係にあるが、実際には大国と小国、覇権国とその他の国々の間に優劣がある。

今の覇権国はアメリカである。

「覇権」は一般的には、国際的な「支配」と同義のように使われており、私もそのように漠然と思っていたが、よく調べてみると、覇権は、いわゆる支配とは定義が明確に異なる。

覇権とは「武力を使わずに他国に影響力を持つこと」である。

支配という言葉から思い起こされる、武力によって他国を傘下に置く植民地、保護国、傀儡政権などは、覇権の範囲に入らない。

 傀儡政権でも、イラクのように明確に軍事侵攻の結果である場合は「覇権」とは呼びにくい。

イラクの場合、建前としては「フセイン政権を倒すことがイラク人の総意だったが、イラク人自身は力を奪われてできなかったので、代わりに米軍がフセインを倒してやった。

その後、イラクに民主国家が建設されていく過程が現状であり、米軍はイラクの民主国家建設を支援し、イラクに入り込んでテロを続けるアルカイダと戦っているだけで、軍事支配とか傀儡政権化とは全く異なる」ということになっている。

 しかし、同じ傀儡化でも、戦後の日本のように、最初は軍事占領で傀儡政権(と疑われるもの)が作られ、その後は米から完全に独立した民主主義国家として機能しているものの、60年たっても対米従属で、外交権を自主的に米に引き渡している場合はどうか。

今の日本人の大多数には、米から抑圧されているという自覚は全くないから、米から日本への影響力行使は、まさに覇権そのものといえる。

傀儡化と覇権とは、矛盾する概念ではないことになる。

影響力行使の際、武力を背景にした脅しが存在するかどうかは微妙な問題であり、覇権(武力なし)と支配(武力あり)との境目は曖昧だ。

(傀儡政権は、国民にとって必ずしも悪いものではない。東条英機よりマッカーサーの方が良い行政をすると当時の日本人の多くが感じ、日本は自主的に米の傀儡になった。米軍侵攻直後、イラク人はフセイン時代より生活が好転すると期待したが、実際にはむしろ生活はひどく悪化したので、イラク人は反米になった)

 もっと広く考えると、今の世界で、反米を掲げている国以外のあらゆる国の政府は、米政府筋から何か非公式に忠告や批判をされたら、それがいかにやんわりと曖昧としたものであっても、かなり強く重視するはずである。

これが覇権の関係である。その意味で、米は覇権国である。

 米からどんな非公式忠告を受けたか、それを受け手の政府中枢がどう分析判断し、反応するか、マスコミには全く出ないケースがほとんどだ。

覇権は隠然と行使され、隠然と対応されている。

覇権の本質や行使の手口は、ほとんどわからない。政府から完全自立しているはずの日本のマスコミが、なぜ対米従属の偏向報道を続けるのか。

日本のマスコミが「偏向」しているのかどうかということ自体を含め、満足な議論になるだけの根拠や材料がない。

しかし、私のところに来る読者からのメールの傾向からみて、3年ほど前から「日本のマスコミは偏向している」と考える人が増えている。

 アジアの国々は最近、米と並んで、中国からのやんわりとした忠告を重視する傾向を強めている。

ミャンマー問題のように、米と中国が相反する主張をしている場合、間にはさまる東南アジア諸国は、微妙なバランスをとった政治を展開する。

中国は、アジアの覇権国になりつつある。同様に、先日のグルジアとロシアの戦争で、英以外の欧州諸国がロシアをほとんど批判しないことからは、ロシアの覇権拡大がうかがえる。

私の「隠れ多極主義」の分析は間違いだと言う人でも、世界の覇権体制が多極化していることは認めざるを得ない。

(グルジアの戦争については改めて書くが、要点だけ先に書くと、先に攻撃したのはグルジアの方であり、米がグルジアのサーカシビリ大統領をそそのかして攻撃させたのだろう。

ロシアを非難する米英マスコミは偏向している。南オセチアとアブハジアが再びグルジア領に戻ることはなさそうだ。

グルジアの国防相と国家統合相はイスラエルとの二重国籍を持ち、ヘブライ語を流暢に話す。イスラエルはグルジア軍の特殊部隊を訓練してきた。

サーカシビリは間抜けな戦争を仕掛けた責任をとって辞任に追い込まれるかもしれない)

▼覇権の背景は民主主義の建前

今回の記事の本題は「なぜ世界を支配するのに、武力を使わない覇権というやり方が必要なのか」をめぐる考察である。結論から先に書くと「民主主義、主権在民が国家の理想の姿であるというのが近代の国際社会における建前であり、ある国が他国を武力で脅して強制的に動かす支配の手法は、被支配国の民意を無視する悪いことだから」である。

 この建前があるため、表向きは、武力を使わず、国際政治の分野での権威とか、文化的影響力によって、世界的もしくは地域諸国に対する影響力が行使され、それが覇権だということになっている。

実際には、軍事力の強い国しか覇権国になれないので、武力が担保になっている。

 また、他国の政治を動かす場合、他国の詳細な政局を把握しておく必要があり、「諜報」は覇権の重要な手口である。

覇権国だったイギリスは、MI6(軍事諜報部、SIS)など世界最強の諜報機関を持ち、今も諜報力は英の国力の最重要の部分である。

英は、スコットランド独立で国土が縮小し、米のコピーだった英金融システムが昨夏以来の金融危機で潰れても、MI6がある限り、他の大国から機密や技術を盗み出し、それを金儲けに変えて国家の生き残りを画策できる。

 最近の覇権国である中国やロシアは、英米ほど諜報が強くない。代わりに中露は、経済的な支配力を使って覇権を行使している。

ロシアの武器はエネルギーで「ガスOPEC」の新カルテルなどでエネルギーの国際価格を操作し、ガスをロシアに頼るEUなどを親露的にさせている。

中国は各地の発展途上国との間で、インフラ・エネルギー投資と、工業製品の販売を軸に経済関係を結び、影響力を拡大している。

 日本も1970年代から同じことができたはずだが、対米従属が心地よかったのと、戦前の悪い覇権国(大東亜共栄圏)のイメージに縛られ、独自覇権の拡大を否定し、国際政治的な資産を築かないまま、経済発展の頂点をすぎてしまった。

まだ今からでも方向転換は可能だろうが、今のところ日本の政府や国民は、どんどん自閉的になるという逆の方向に進んでいる。

▼産業革命が世界覇権につながった

 人類史上、初めて世界的な覇権を構築したのはイギリスである。1815年にナポレオンを破ってから、1914年に第一次大戦が始まるまでが、イギリスの覇権期(パックス・ブリタニカ)だった。

 イギリスが世界覇権を初めて構築できた主因は、1780年代から産業革命を引き起こし、それまで馬力や人力、水力などしかなかった動力の分野に、蒸気機関やガソリンエンジンをもたらし、汽船や鉄道などを開発し、交通の所要時間の面で世界を縮小させたからである。

産業革命前の世界は、中国から欧州に行くまで何カ月もかかり、中国と欧州を一つの覇権国家が支配することは難しかった。

13世紀、馬の速力を使ったモンゴル帝国が、中国から黒海までを支配したのが唯一の例外だった。

 15-16世紀、スペインとポルトガルが大航海によって世界帝国を作ったかに見えるが、彼らは世界のいくつかの港湾拠点を帆船でつなぎ、年に何回かの航海をしていただけで、多くの国々は、スペインやポルトガルと関係なく存在していた。

中国には欧州より豊かな明・清の帝国があったし、中東経由の陸路でアジアに行く貿易路はオスマントルコ帝国が支配していた。

 英に始まり、欧州大陸諸国に広がった産業革命は、英を中心とする欧州の産業力、軍事力を格段に発展させ、中国やオスマン帝国は、やがて英が主導する欧州列強によって破壊され、分割支配された。

 英は覇権国家となったものの「武力を使わず、政治文化的な影響力だけで他国を動かす」という覇権の行使対象となっていたのは、欧州地域の国々だけだった。

欧州以外の国に対しては、中国に対するアヘン戦争(1840年)や、アフリカ分割(1880-1910年代)などで武力を行使し、植民地化して露骨に支配した。

 英が、欧州諸国に対しては「覇権」による隠然支配を行う半面、欧州以外の諸地域に対しては露骨な植民地支配を行った理由はいくつかある。

その一つは、ローマ帝国以来、欧州はキリスト教世界としての一体感があったこと。

もう一つは経済的に、欧州は英が産業革命によって大量生産した商品の売り先であり、欧州全体の安定が英の発展にとって必要だった。

また、英が強国になった時には、すでにスペイン、フランス、オランダ、ロシアなどが強い国として存在しており、それらの他の列強と戦って勝つことは無理だった。英は、海軍は最強だったが、陸軍は弱かった。

 英は、世界で最初に民主主義の理念を開発した国である。

1215年の「マグナカルタ」で貴族と王家との権利義務関係が文書化され、国民(臣民)と王家との権利義務関係も1628年の「権利請願」にさかのぼる。

英は、自国が民主主義を政治の建前とする以上、他の欧州諸国の民主主義も尊重し、英が他国を露骨に支配する方式を避けた。

財政的にも、戦争ではなく諜報や外交の政治謀略で覇権を取った方が有利だった。

▼オランダから貿易権を奪って大帝国に

 そもそも英が強国となれたのは、海上ルートを使った貿易による儲けを蓄積したからだが、海上貿易によって儲けて大国になるやり方は、オランダが先にやっていた。

 オランダは、1581年にスペインから独立した国で、もともとスペインが開拓した国際航路を活用し、カトリック教国だったスペインが嫌ったプロテスタントやユダヤ人を多く受け入れ、中世から地中海貿易で活躍していたユダヤ人の商業技能を生かし、船舶の高速化など技術開発にも積極的で、世界最初の自由貿易共和国として大発展した。

オランダは民間企業が貿易を手がけたが、英仏西など他の諸国の貿易は国営だった。

オランダの東インド会社は、200年間の平均株主配当率が18%だった。

(欧米の歴史家や記者にはユダヤ人が多いが、彼らは、ユダヤ人が成功させた自由貿易共和国オランダを、ことさら高く評価する傾向がある。ただし、いつものとおり、彼らの記述は「ユダヤ人」という言葉を最小限にしか使わない)

 オランダは、アジアではジャワ島、台湾(台南)、長崎など、北米ではニューヨークの前進であるニューアムステルダム(ハドソン川の毛皮貿易の集積地)などを、寄港地として持っていた。

ニューヨークの「ウォール街」の名称は、ニューアムステルダムの城壁(ウォール)に沿った道という意味である。

日本の徳川幕府が、鎖国に際し、欧州諸国の中で唯一の取引相手として、植民地野心が強いスペインなどではなく、領土野心の少ない貿易共和国のオランダを選んだのは、徳川家が世界情勢をかなり理解していたことを示している。

 英蘭が相次いで東インド会社を設立し、対アジア貿易を強化し始めた1600年には、まだ欧州とアジアとの貿易の4分の3は、中東経由の陸路だった。

しかし100年後の1700年には、アジア交易のほとんどは、英蘭の船舶によるものになった。

100年で世界貿易の主役が交代し、中東の没落が始まった。

 イギリスは、1588年にスペイン無敵艦隊を破り、欧州最強の海軍力を持って植民地拡大を加速したが、同時にオランダのやり方をまねて貿易の儲けを増やし、その上で1660年に航海条例を定め、オランダ船を筆頭とする他国船を排除した。

 それまでロンドンの港には、英の商船より蘭の商船の方が多く入港し、蘭商船の総数は、英仏西3カ国の商船の合計数より多かった。

しかし、英の航海条例など、英仏が組んで自由貿易体制をやめて保護貿易に移行した。

これを不満とする蘭は、英と戦争したが負け、ニューアムステルダムを英に奪われ、海軍力を背景に貿易量を急増させた英の影で、蘭は国力を落とした。

(蘭英貿易関連のことは、米大学で西洋史の初級授業で使われている教科書「Civilization in the West」を参考にした)

▼フランス革命と英の均衡戦略

 欧州における英の覇権体制の基本方針は、すでに述べたような

(1)英の海上貿易の利権を守ること

(2)欧州内では覇権的な隠然支配体制を組む一方、欧州外の世界に対しては植民地支配によって、宗主国としての経済利権を享受する、という2つの方針のほかにもう一つ

(3)欧州内でどこかの国が圧倒的に強くなって英を打ち負かさぬよう、複数の国が同盟して英を潰しにかからぬよう、欧州大陸諸国を常に拮抗した力関係の中に置いておくという「均衡戦略」(バランス・オブ・パワー)の方針があった。

 英が均衡戦略を必要とした直接的な理由は「フランス革命」だった。

英における政治の民主化は、13世紀のマグナカルタ以来の流れとしてゆっくり進み、17世紀にピューリタン革命によって共和制が敷かれたものの11年後には王政が復活し、その後は立憲君主制の政治が定着した。

一方フランスの民主化は、暴力的な革命によって王政が1792年に倒され、国民の9割を占める農民が土地に縛られていた状態から劇的に解放されて市民となり、愛国心に満ちた状態にいた。

 混乱の中、将軍から独裁的指導者、皇帝となったナポレオンは、仏国民の愛国心の高揚を背景に、当時として画期的な国民皆兵の軍隊を築き、市民革命(国民国家革命)を全欧州に拡大すべく、欧州征服のナポレオン戦争を開始した。

当時の欧州諸国の戦争は、金を出して傭兵を集めたり、地主に税金の代わりに領民を兵士として出させたりして戦うもので、巨額の戦費がかかり、兵士の士気は低かった。

 これに比べ、愛国心に満ちた仏国民は、進んで国のために兵士になって死に、兵士にならない者は喜んで税金を払って戦費を負担した。

ナポレオンが指揮する仏軍は圧倒的に強く、10年ほどの間に、今のスペイン、オランダ、イタリア、ドイツ、スイス、ポーランドなどにあたる地域を征服した。

 仏以外の欧州諸国の王侯貴族はフランス革命の進展を見て、いずれ革命が自国にも波及すると懸念し、イギリス、プロシア、オーストリア、ロシアの4カ国が反仏同盟を組んで仏を潰しにかかり、これがナポレオン戦争に発展した。

当初は優勢だったナポレオンは、1812年にロシア遠征に失敗した後、不利になり、1814年に4カ国連合軍に敗北した。

その後、戦後の欧州の体制を作るためにウィーン会議が開かれた。

この会議はオーストリアの宰相メッテルニヒの主催だったが、実際に会議を誘導したのはイギリスで、欧州大陸の諸大国どうしを拮抗した力関係の中に置くことで、島国の英が漁夫の利を得られる新政治体制が組まれた。

▼ドイツとイタリアの建国を予約する

 ウィーン会議では、仏がいずれナポレオンに代わる大将軍を得て再び欧州征服を試みるという懸念から、仏周辺の国々が征服されにくい新体制を持つように定められた。

スイスは永世中立国として承認され、仏から侵攻されない立場を得た。

いくつもの小国に分かれていた今のイタリアとドイツの地域には、イタリアとドイツを統一建国としてすることが予約的に了承され、両地域では統一国家建設の運動がさかんになった。

独伊が建国されることで、仏は両地域に再侵略できなくなり、欧州大陸は同じぐらいの大きさの国々が割拠する均衡状態に近づいた。

独伊の建国は、英の均衡戦略によって誘導されたものだった。

 仏については、英が主導する4大国がナポレオンを追放した後、ブルボン王家を迎えて王政復古させたが、これは事実上、英主導の傀儡政権だった。

仏はその後、現在に至るまで、基本的に、英に対して劣位的な、持ちつ持たれつの関係にある。

英の中枢では、英の国益だけを重視する勢力と、もっと国際的な投資利益を重視する勢力が暗闘しているが、国際勢力はフランスに反英的な言動をさせて国際社会を動かすようなことを、たびたび行っている。

仏は、英の好敵手を演じることで、英にとっても意味のある存在であり続けている。

 フランス革命自体、その少し前に起きたアメリカの独立とともに、イギリスの資本家が国際投資環境の実験的な整備のために誘発したのではないかとも思える。

フランス革命によって世界で初めて確立した国民国家体制(共和制民主主義)は、戦争に強いだけでなく、政府の財政面でも、国民の愛国心に基づく納税システムの確立につながり、先進的な国家財政制度となった。

それまでの欧州諸国は、土地に縛られた農民が、いやいやながら地主に収穫の一部を納税する制度で、農民の生産性は上がらず、国家の税収は増えにくかった。

 フランス革命を発端に、世界各地で起きた国民国家革命は、人々を、喜んで国家のために金を出し、国土防衛戦争のために命を投げ出させる「国民」という名のカルト信者に仕立てた。

権力者としては、国民に愛国心を植え付け、必要に応じて周辺国の脅威を扇動するだけで、財政と兵力が手に入る。国民国家にとって教育とマスコミが重要なのは、このカルト制度を維持発展させる「洗脳機能」を担っているからだ。

 国民国家は、最も効率の良い戦争装置となった。

どの国の為政者も、国民国家のシステムを導入したがった。

王侯貴族は、自分たちが辞めたくないので立憲君主制と国民国家制を抱き合わせる形にした。

また「国民」を形成するほどの結束力が人々の間になかった中国やロシアなどでは、一党独裁で「共産主義の理想」を実現するという共同幻想を軸に「国民」の代わりに「人民」の自覚を持たせ、いかがわしい「民主集中制」であって民主主義ではないものの、人々の愛国心や貢献心を煽って頑張らせる点では国民国家に劣らない「社会主義国」が作られた。

 フランス革命は、産業革命と同時期に起きたが、この時期的な一致も重要だ。産業革命によって、人々の大半が従事のすべき仕事は、農業から工業に代わった。

ここにフランス革命を筆頭とする国民国家革命、もしくは上からの政治改革・農奴解放が重なることで、農村の土地に縛られていた農民は、都会に流入して労働者となり、工業生産活動と納税を行う市民となり、産業革命が順調に進んで経済発展した国では、消費者にもなった。

資本家としては、貧農が国民の大半を占める国ではなく、中産階級になるかもしれない労働者市民が大半の国に投資した方が儲かる。

国民国家は、国民の納税義務感が強いので財政破綻しにくく、この面でも好都合だ。

 ナポレオンが英征服を企てた点では、フランス革命は英にとって迷惑だった。

だが、フランス革命を皮切りに、欧州各国が政治体制を国民国家型(主に立憲君主制)に転換し、産業革命が欧州全体に拡大していく土壌を作り、英の資本家が海外投資して儲け続けることを可能にした点では、フランス革命は良いことだった。

 英を含む欧州各国は、キリスト教世界として同質の文化を持っていたので、英発祥の産業革命と、仏発祥の国民革命は、ロシアまでの全欧州に拡大した。

その中で、ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後の英は、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国が抜きん出て強くならないよう、拮抗した均衡状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第一次大戦までの覇権体制(パックス・ブリタニカ)を実現した。

 英覇権体制は、欧州大陸諸国の一つであるドイツが、後発の産業革命によって1890年代に英自身を上回る産業力・軍事力を持つにいたり、独を封じ込めようとした英の策略が失敗して第一次世界大戦が起きたことで終焉したが、そのあたりのことは、改めて書くことにする。



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初版日時: 2017-10-18 (水) 21:42:34
最終更新: 2018-10-15 (月) 11:17:22 (JST) (56d) by hikoichi