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5。M防災会社を自営する :: 彦市

xpwiki1:5。M防災会社を自営する

 

会社を設立

資金が無くての起業

昭和49年2月、名古屋の実家に戻って、2世帯住宅構造の2階に住まうことになった。

私がN酸素会社を退職したことに対して、私の両親は不満であるらしく、歓迎はされなかった。

他方、北九州で鋼材会社を経営していた妻の父親は、私の構想に対して、可能性を信じて賛同してもらえた。

そして、親の会社にいた妻の弟が、私を信じて事業に参加すると言って名古屋に来て、私の隣室で生活することになった。

起業にあたり、資金不足であったが、親の援助などはあてにしないで自分たちの力だけでやりたかった。

会社設立の手続きなども、すべて自分たちで行った。

弟が自分の乗用車を現物出資として提供して、私の両親にも資本参加してもらって、M防災有限会社を設立した。

また、小切手を発行するために東海銀行で当座預金の手続きもした。

庭先にあった5坪ほどの仮設倉庫を借りて、事務所とした。

仕事ゼロからの出発

会社を設立しても、全く仕事が無い状態だが、とりあえず、火災報知設備と消火器の保守業務ができるように、工具類と検査器具を揃えた。

また、消火器販売の代理店契約をして、山梨のメーカー工場に出向いて専門家の技術教育を受けた。

簡単な業務案内と消火器のカタログを持って、周辺の事業所をセールスした。

一方では、電話帳の職業欄を調べて、幾つかの防災設備業者に電話して、仕事に協力したいと申し出た。

S社から、火災報知設備の保守を下請けで代行作業する話がきた。

また、N社から、人が足りない時に応援してもらいたいとの話がきた。

このN社は、本社が東京で、名古屋は営業所であった。

所長が私に好意的で、難しい作業や消火装置の点検には、いつも私たちを連れ出してもらった。

この結果、消火設備や避難器具の実務を習得できたので、今でも感謝している。

以前勤めていたN酸素会社の名古屋事業所に挨拶訪問したら、漏電火災警報機の設置を注文された。

起業後の1年間は、私の給与を減らして収支の帳尻を合わせたり、個人の資金を会社に貸し付けたりした。

会計事務所と契約する余裕がなかったので、私が決算書類を作成して、自分で税務署に提出した。

2年度になって、社員を募集して2名のアルバイト社員が入社した。

妻に経理事務を担当してもらうことで同意をとって、経理専門学校へ通って複式簿記を学習してもらった。

私は日常業務の傍らで、消火設備の技術習得に努めた。

国内の専門書を読んでも詳しい技術内容が記されていないので、米国の消防規格(NFPA Codes Handbook)を取り寄せて消火設備の詳細を学習した。

そして、消防設備の全般に亙ってメンテナンスができるように、検査機材を揃える計画をした。

このためにかなりの出費となったが、新入りの我社は、他社が引き受けない仕事や他社で出来ない仕事から参入する方策であった。

 下請け企業に徹する

営業経費を捻出できない

最初に取引開始したS社が官公庁から落札した物件の下請け作業を依頼された。

東海市の小中学校他30近くの建物の防災設備全般を定期点検する作業であった。

続いて、愛知県の東北部山間僻地に点在する小中学校などの定期点検作業も請けた。

これらは、採算や難易度から判断して、他社が引き受けたがらない物件であった。

我社では、社員総動員して対処することになって、中途半端な営業活動を止めることにした。

事実、小額な売上では営業経費が捻出できない状態であった。

これを機会に、下請け企業に方向転換することにした。

社員も4・5名となり、仕事の見通しが立ち始めたので、近くの木造空き店舗を賃貸契約して、事務所を移転した。

広さは15坪程度であった。

技術力をつける

昭和51年になって、名古屋ターミナルビルが完成して、設備工事を担当したN防災会社から、1年間のアフターサービスを実施する下請け作業の話がきた。

地上20階地下3階で、百貨店やホテル、専門店街の複合ビルであった。

(現在は取り壊されていて、新たに新築中であり、更に高層ビルとなる)

その時の決断で、我社で積極的に取り組む姿勢を示し、早速に社員を増強した。

名古屋ターミナルビルの1年間の作業実績が評価されて、N防災会社から更に追加物件の定期点検について下請け作業を依頼された。

これは、国鉄名古屋鉄道管理局管内のすべてに近い建物の火災報知設備の定期点検作業であった。

当時は国鉄独自の報告様式があり、更には、予め職場安全教育を受講した作業員でなければ作業に就けなかった。

点検対象物件が、東海3県に亙り、3ヶ月間を要する作業量であった。

これも、他社が引き受けたがらない仕事であった。

とにかく、後発の企業では、早く技術力をつけて他社に対抗できる実績をつくることであるから、どんな仕事でも引き受けた。

その際の具体的対処法は・・・

  • 新しい作業は、私(社長)が率先して実行する。
  • 必要とされる知識を積極的に習得する。
  • 点検用機材は、無理しても揃える。
  • 危険な作業は、私が担当してから、その対策を考える。

その後、N防災会社との取引が拡大して、名古屋市地下鉄、名古屋駅周辺の地下街、県内の大規模工場などでの総合防災メンテナンスに発展した。

(メンテナンスとは、点検作業+修理見積り提示+改修工事を含む保守です)

社員教育の難しさ

零細企業には優秀な人材を願っても集まらないので、中途採用やアルバイト採用の社員で対処しなければならない。

また、中途採用者は他社の労働条件を知っているし、アルバイト者は腰掛け的な気持ちを持っている。

彼等を、社員のレベルまで引き上げるには、社員教育如何に懸っている。

そこで、私が行った対策は、給与体系と集合教育に関してであった。

給与体系を大企業に準ずる形として、タイムカードによる時間管理、時間外労働の割増賃金、ボーナス算定基準の公開などを実行した。

社内用の教育テキストを作成して、定期的に集合教育を実施した。

その日をノー残業デーにして、17時30分から19時30分までの2時間を全員対象の学習時間とした。

パンと牛乳を支給し、1時間の時間給を加算支給した。

主に消防設備士の技術知識と作業方法の解説であった。

また、適当な作業や手抜き作業を防ぐために、防災設備メンテナンスの重要性と作業員の位置づけに関する話で意識改革を狙った。

零細企業では身内の社員比率が高く、身内に甘くしたり、公私混同が起こりやすいので、そのようなことがないように身内に厳しくして、誤解されないように気配りした。

業務の多様化

下請け作業での契約更新時には、上下関係がはっきりしているので、単価を引き下げられて採算が悪化する。

そこで、複数の会社と取引をして、逃げ道を作りながら、作業量の均等化を図らなければ経営が成り立たなくなる。

この様な考えから、下記の如く複数業務を組み合わせて採算を維持した。

  • 消防用設備の総合メンテナンス
  • 消防用設備の改修工事
  • 侵入警報装置のメンテナンス
  • 駐車場設備のメンテナンス

下請けではあるが、専属契約でななく、複数の会社と取引していたので、仕事が重なることが屡々生じた。

私は、先約優先主義で処理した。

この為に、条件の良い仕事を逃すこともあったが、そうしないと信頼関係が崩れてしまう。

また、社員が退職を申し出た時は、一応理由を聞くが、慰留しない方針を貫いた。

私自身が過去に退職した経験があるし、本人の決断を尊重した。

引き止めて、他の社員に及ぼす影響を考えると、一時は苦しいやり繰りとなるが、その後の反省材料として、繰り返し起こらないように改善した。

駐車場設備のメンテナンス

都市部の大型駐車場では、自動料金計算設備が導入されていた。

また、銀行や市街地のビルでは、入庫車を制限する種々の駐車場管理システムが設置されていた。

当時の国内メーカーは4社であり、その内の1社のシステムを代行メンテナンスしていた。

まだ、普及前の発展途上であったので、各所のシステムが統一されておらず、部品にも互換性がなかった。

また、IC基板(プリント・シート)が複数使われていて、予備基板も十分ではなかった。

従って、故障時には、現場にオッシロ・スコープを持ち込んで、動作波形を調べたりして、破損部品の取り替えをしなければならなかった。

こんな状態では、作業の標準化が出来ないし、社員教育も大変であった。

従って、担当社員には、巡回点検作業のみとして、故障対応は私が受け持っていた。

修理が長引き深夜に及ぶことも屡々であった。

事務所の新築

アルバイト社員を含めて人数が7~8名になり、年間を通して作業計画を立てられる状態になったので、事務所を新築することにした。

固定資産は出来るだけ減らして身軽な経営をしたかったので、貸事務所や貸工場から探した。

近くに適当な物件が見つかり、不動産業者の仲介で、こちらの希望を入れた新築工事をしてもらった後に賃貸契約した。

1階部分を倉庫兼作業場として、2階に事務所、更衣室、シャワー室、湯沸場、トイレを配置した。

冷暖房設備、電気工事、照明器具、レイアウト変更による建設費の増加分など合わせて500万円ほどを我社で負担した。

軽量鉄骨造りの総2階建で、延べ40坪近くであった。

道路側に面して駐車スペースがあって、倉庫前面はシャッターとして、ホイスト用軌条を設置した。

会社を整理する

将来展望

社員の平均年齢が高くなって、殆どが妻帯者となったので、人件費も増大する傾向にあった。

防災業界の過当競争が激しくなって、メーカー自身がダンピング出荷する状況となった。

定価の半値8掛けなどと言われていた。

末端の零細企業では、まともな商売では採算割れするので、手抜き作業をする不良業者が出る状態となった。

この業界は歴史が浅いので、企業規模が小さく、社員数で10名以上の企業は数えるほどしかなかった。

新入りの我社でも、同業者から知られるほどになり、同業他社からの応援依頼を受けたり、検査機材の貸出をすることもあった。

将来を展望すると、防災分野では、大規模物件の総合保守と消火設備の定期点検以外は採算が危ぶまれると判断した。

N防災会社の親会社でコイン・パーキング機器を製造しており、我社で設置工事を手がける意志表示をしてからは、徐々に建設工事を請け負って、実績を作りつつあった。

巷では、都会地にコイン・パーキングが目につくようになり出した。

社員からの反発

将来性を考えて、コイン・パーキング事業への転換構想を社員に提案した処、積極姿勢が見られなかった。

以前から大規模駐車場の料金計算システムのメンテナンスを手がけていたが、マイクロ・コンピュータが内蔵されたIC基盤の知識が必要であり、容易に取り組めないものであった。

また、開発過渡期にあって、新方式のシステムが出るので、その都度勉強しなければならなかったし、駐車券発行機の機構部が故障を起こしやすかった。

社員の立場になって考えると、馴れた仕事から離れたくないのが本心であって、採算云々言われても、それは社長の仕事であろう・・・と言うことになる。

また、駐車場の建設は土建屋の仕事で、自分たちの分野と異なるから、新たに人を雇ったらよいではないか・・・となる。

これらの見解の違いで、社員が反対するのが理解できても、私の立場では、別組織で増員までして事業を拡大する意向ではなかったし、自分だけでは出来ない作業量であった。

このまま継続すると、蓄えを食いつぶすことが予想されるし、まるで社員のための会社運営となり、自分が犠牲者になってしまう。

会社整理を決断

あれこれと熟慮したが、今が会社整理の機会だとの結論に至った。

そこで、社員が一丸となって自主経営するならば、期限付きで資産を貸すからやってみないか・・・と提案した。

しかし、社員からは回答が出なかった。

そこですべての取引先に対して、会社整理を通告した。

事務所を新築して2年経過した時で、昭和61年2月初めであった。

突然の通告であったので、各社から疑義が出たが、下請けの立場の方が強い。

受注していた仕事は確実に完成をするが、次年度からの新規契約を断るだけに過ぎない。

どの会社とも専属契約はしていなかった。

勿論、必要な引き継ぎはする腹づもりであった。

新年度に入ってしまうと契約破棄となって、損害賠償の問題が出るので、通告のタイミングが重要であった。

相手会社の要望もあって、担当社員の移動を含む話し合いをして、順次解決したが、駐車場システムのメンテナンスが問題となった。

しかし、この実務は殆ど私が担当していたので、引き継ぎ完了するまで、私が責任をもって対処することで話がついた。

社員の動揺もあったが、殆どの社員が発注元の会社へ移動できた。

我社では、以前から中小企業退職年金制度に加入していたので、そちらから規定の退職金が本人に直接支払われた。

会社からは特別付加金を支払った。

そして、お別れ会として、2泊3日の沖縄旅行を全額会社持ちで実施した。

私は、業務引き継ぎや残務整理で、それから6ヶ月間会社に残った。

そして、実質休眠会社の扱いで会計事務所と契約した。

金融機関からの借入金はなかったので、トラブルは全く発生しなかった。

また、未収金も殆ど回収できた。

元社員の現況

会社整理後も、元社員との年賀状交換だけは現在まで続いている。

HA君は、NA防災会社を設立し、担当していた発注元から人柄と実績を評価されて、現在では立派に活動されている。

SA君は、担当していた発注元の会社へ就職して、東京や大阪で勤務していたが、その後は年賀状が途絶えている。

YO君は、担当していた発注元の会社へ就職して、その後しばらくして東京本社へ出向して大規模ビルの改造工事を担当した。現在は年金生活をしている。

SU君は、同業の他社へ就職したが、数年後に病死した。元社員が揃って葬儀に参列した。

U君は、電気工事会社へ就職して、責任あるポストで活躍されている。

当時から30年が経過しているので、各人共に子供が成人に達している状況である。



Last-modified: 2018-04-17 (火) 17:58:17 (JST) (51d) by hikoichi