彦市   » 転職自分史 » 2。N酸素会社に勤める

工場勤務の初級技術者

大企業へ就職できたことを伯父から褒められる

昭和33年にA工業高校機械科を卒業してN酸素会社に就職が決まった。

事業家の伯父に身元保証人をお願いするため、久しぶりに訪ねたら、一家で歓待して下さり、大企業に就職できたことを褒め称えて快く引き受けていただいた。

銀座の本社で集合教育を受ける

この年は、朝鮮戦争後の復興景気で企業の設備投資が活発であった。

そして、日本の工業製品がアメリカへ大量に輸出され始めた。

そのため、大企業が多くの新卒社員を採用した。

私と同期入社は、大卒15名ほど、高卒20名ほどでバス1台で満席近かった。

本社は銀座5丁目の東1筋目を入った所で、鉄筋3階建ての古風なビルであった。

ここで、3日間の集合教育を受けた。

関東地区にあった代表的な3工場の見学ツアーが特に印象深い。

新設工場へ配属される

北九州の小倉に、液体酸素の新鋭工場が建設された直後で、私はそこへ配属された。

新築の社宅2棟があって、3軒分は独身者で使用されていた。

ここに12名の独身者が居住して、近所の主婦と契約して、朝食と夕食を賄ってもらっていた。

夕食後は、食堂が雀荘に替わることが多かったが、家族的な雰囲気であった。

同室のO君は広島県の出身で、同期入社の技術系であり、工場は違ったが話しの合う良き友人で、休日には行動を共にした。

同室には、あと2名の学卒先輩が入居されていたが、私たちを快く受け入れていただいた。

工場への通勤はバスと電車と徒歩で40分を要した。

工場技術者としての体験

工場は関門海峡西の臨界工業団地で、S製鉄所の並びであった。

プラントは、液体酸素と液体窒素を併産できるもので、毎時700リッターの製造能力であった。

月1~2回の定修日を除いて、連続運転であり、一旦断熱タンクに貯蔵されるが、殆どはガス化されて、パイプ輸送されたり、圧縮ガスで出荷された。

一部が、液体状のままタンクーローリー車に移して輸送された。

プラントの運転要員は3直4交代制で、現地採用の工員があたった。

当時は、職員と工員の身分制度が残っていて、職員は転勤があり、全国各地から集められていた。

私は、上級職員とペアで昼夜の運転管理を担当した。

2年後からは、運転管理も一人で担当できたし、タンクローリーの搭乗員もした。

職場の潜在的危険を知る

どこの工場でも潜在的危険が存在するが、この高圧ガス製造工場では、高圧、極低温、高圧電気、重量物という要因があるので、一般の製造工場と比べて、危険度が高いと思われた。

  • 大量の空気を200気圧まで圧縮する。
  • 中間製品がマイナス190度の低温である。
  • 特別高圧の変電設備がある。
  • 高圧ボンベは1本あたり65kgである。
  • 酸素圧縮ガスは、可燃物と接した状態で着火すると、爆発的に燃焼する。
  • 窒素ガスは、濃度が高いと窒息死の危険がある。

楽しい青春時代

タンクローリー車には、取扱い責任者が同乗する規則になっていた。

昭和35年に関門トンネルが開通して、液体酸素は火薬などと合わせて危険物車両として扱われた。

このため、道路管理者のパトカーが赤色灯を点灯して先導した時期があった。

また、当時のタンクは断熱性能が悪くて、蒸発した酸素を放出しながら走行したので、他の車両からガス漏れを指摘されたりした。

ローリー車で輸送した液体酸素は、得意先で圧縮ガスに転換するケースが多かったので、これが同乗者の仕事であった。

大分県や山口県へ出かけると1日仕事となり、時には1泊した。

長時間の乗車で疲れたが、社会経験豊かな運転者と雑談できるし、通過する風景を楽しむことができた。

大口得意先は、造船所、製鉄所、化学工場などであった。

職場では、工場長から気にかけてもらったり、上司からも飲食を招待されたりした。

また、新設工場であったので、同年配であったり、経験も少ない人が多く、和気藹々と付き合いができた。

同僚の若手職員は、東京、神奈川、長野、山形、長崎の出身者であり、上級職員は4名であった。

電検3種の資格取得に挑戦

工場の受変電設備は2万ボルトで受けて1,200KWを3,000Vで使用する。

変電設備は3,000KVAの容量であった。

電気主任技術者の常駐が必要で、電力会社を退職した嘱託社員が担当されていた。

設備の改修は電気工事会社が行うので、実務は殆ど無かった。

台風が通過して1週間ほど過ぎた頃、変電所が焼損して、1週間程もプラントが停止した。

原因は碍子に塩分が付着して短絡・地絡事故を生じたものであった。

その後も、へびが侵入して短絡事故が生じた。

シフト勤務する私は、電気設備の重要性を認識すると共に、知識を持つ必要性を感じた。

そこで、高圧電気設備の学習に取り組み始めた。

知るほどに、奥が深いことに気づいて、電気主任技術者の資格試験に挑戦する決意に至った。

東京電機大学の受験シリーズがあったので、このテキストから学習した。

結婚して転勤

労組支部の役員をしていて、本社の地下室にあった労組本部を訪れた際に、自分が新設工場の要員候補に上っている噂を耳にした。

当時付き合っていた女性がいたので、強引に結婚する話を持ち出して、何とか相手のご両親まで話を通した。

2ヶ月ほどして、準備不足ながら結婚式を済ませてアパートでの新居生活を始めた。

その後、3ヶ月後に転勤となった。

新設工場ではなく、本社への転勤であった。

本社勤務の中級技術者

社宅住まい

昭和38年5月に本社技術部勤務となった。

妻帯者の転勤であるので、社宅に入居できた。

場所は東京都大田区で、戦後に建てられた木造平屋の2軒長屋であった。

この社宅には20世帯ほどが入居していたが、本社勤務は7人であり、他は京浜地区の事業所勤務であった。

本社は芝田村町に新築移転されており、日比谷公園から南へ600mの場所で、8階建てビルであった。

社宅から50分の通勤時間を要した。

高度経済成長時代

私は酸素ガス部門の生産管理係であったので、生産量集計、工場設備の機械台帳、社内規格などを担当した。

高度成長時代であったので、工場はどこもフル稼働であり、故障無く安定稼働することが重要課題であった。

航空吸入用酸素

社内規格を担当していた頃に、航空吸入用酸素の規格作りで苦労した。

当時は圧縮ガスとして専用のボンベで供給していたが、水分や不純物の混入があってはならず、品質検査が厳しかった。

米軍規格(MIL Standard)の関係項目を参考にしたが、英語読解力が乏しい上に、特殊用語があって、辞書と首っ引きであった。

この頃に自衛隊の規格も作成されたが、同僚と立川基地を訪ねたこともあった。

コンピュータ導入が始まる

電算室が設置されて、富士通のFACOMが導入された。

COBOLやFOTRANの言語でコーディング用紙にプログラムを書いて、それを撰孔テープに変換して機械に読み込ませる方式であった。

当時は、給与計算、需要予測、配送計画などで活用されていた。

テレビ技術者を目指す

東京オリンピックを控えて、カラーテレビが人気商品の時代で、給与の3ヶ月分ほどの価格であった。

私はテレビ技術に興味を抱き、N電子学院のテレビ専門部(夜間)に2年間通った。

学校は蒲田にあって、通勤経路の中間点であり都合が良かった。

当時は真空管の時代で、測定器の使い方や回路の組み立てと動作特性の確認などの実習もあった。

テレビ修理専門店であれば少資本で開業出来そうだと夢見たこともあったが、簡単に参入出来るので過当競争になるであろうと判断して断念した。

しかし、この弱電基礎知識の習得は後で役に立った。

工場のスクラップ・アンド・ビルド

鉄鋼製品の内需および輸出量が増加して、製鉄所の高炉が増設された。

この高炉に酸素ガスを吹き込む方式の新技術との関連で、酸素製造プラントの増設も相次いだ。

当社にはプラント製作部門があって、超大型プラントの製作に関しては、ドイツのリンデ社と技術提携していた。

こんな背景があって、世界最大級の新鋭酸素製造プラントを製鉄所に納入した。

また、製鉄所と合弁で別会社を設立して、専業の立場でプラント建設から運転委託までを当社が担当し、その副産物の液体酸素や液体窒素を当社が引き取ることで、双方にメリットがある方式、即ち、オンサイト・プラント方式が採用された。

このために、既存の酸素プラントを順次休止して、生産拠点が集約された。

また、一方では、業界の再編成と配送の合理化の為に、工場のスクラップ・アンド・ビルドが進んだ。

このオンサイト・プラントの試運転立会いが私の担当となり、同僚と現地に出向いて、数日間に亙り滞在して、運転状況を逐一上司に報告する仕事もした。

また、配転者や新卒者のオペレーター要員に対して、必要な技術教育を同僚と複数で担当した。

沖縄への長期出張

本土返還前であったが、休止プラントを沖縄の同業者に移設したことがあった。

この時は、同僚と二人で沖縄に3ヶ月滞在した。

工事の立会いと試運転並びにオペレーターへの運転指導をした。

任務終了後に、先方の社長から労いを受けて、米軍専用のカジノ・バーへも入店できた。

当時は、日本人の一部経営者にも米軍専用施設への入店が許されていたのであった。

新技術にも挑戦

トランジスタやICの生産が活況を呈して、製造現場では、次々に新方式が開発・導入された。

それに関連して、半導体製造の原料ガスとして、燐や砒素の化合物を混ぜた特殊ガスの需要が増加した。

このため、高価な輸入品から国産化へ切り替えるために、製造装置の自作を試みて複数の方式で実現したが、この装置開発にも参加した。

また、ヘリウムガスの需要も増加して、液体ヘリウムを外国から空路輸入していたが、プラント部門と共同で小型ヘリウム液化装置の開発にも参加した。

社内懸賞論文で1位表彰を受けた

会社創立60周年行事の1つとして、従業員に向けて懸賞論文の募集があった。

当時、私たち若手5名で早朝勉強会を実施していた。

このグループで共同執筆した論文がたまたま1位に選ばれて、副賞が10万円付いた。

この賞金で伊豆半島1周のマイカー旅行をして、残金を図書カードで分け合った。

論文の内容は、当社の将来展望をシナリオ風に記したもので、日経連の図書室などへ通って各種の統計資料を参考にして取りまとめたものであった。

労組の専従役員に就任

私が所属するガス部門の労組は合成化学労連に加盟しており、プラント部門の労組は全国金属労連に加盟していた。

このように上部団体こそ違ったが、同一企業内組合であったので、春闘などでは共闘したし、団体交渉でも両労組が同席して行っていた。

先輩から推薦されて、ついに専従役員に就任することになって、1年間を休職扱いになった。

そして、賃金体系について重点的に取り組んだ。

当時は、実力主義の賃金体系に移行する風潮で、職能給と職務給について盛んに論議されていたし、労組側としては、組合員全員が実質賃金の低下を生じ無いように気配りして、賃金実態調査やアンケートの集約などで多忙であった。

当時の合化労連委員長は太田薫氏で、総評議長を兼ねておられた。

毎年ストライキを構えて、大幅な賃金アップを実現したが、翌年には物価上昇で帳消しになり、実質賃金は僅かな上昇にしかならなかった。

加盟傘下の単組は、上部団体の指導の下で粘り強く闘ったが、企業内組合であるから、幼児が親に駄々を捏ねる如きで、互いに主張を繰り返すだけであった。

経営者は同業他社と横並びの回答額を出すばかりで、経営実態に応じた回答は得られなかった。

このような闘争では、双方が無駄なエネルギーを費やすことであり、労使で物価スライド条項を入れた賃金協定を結べば済むことである。

独立起業構想を抱いて退職

自分の将来を展望する

専従役員を1年勤めただけで退任して、元の職場に復帰した。

続いて、本社の労組支部長に就任した。

本社支部では学卒者が多数であり、仕事で会社に貢献したいとの意識が強く、工場の労働者と違って組合活動が消極的になる傾向であった。

毎年のベースアップで、実質的な賃金は上昇していたが、国民全体の生活水準も上昇していたので、生活実感としては有り難味が薄かった。

そこで、私は、自分の将来を展望してみた。

毎年学卒者の入社比率が高まり、一方では工場の統廃合があり、合弁事業も増加傾向にあった。

このため、中級技術者は合弁会社へ転出するか海外出向するかの道しか無いように思われた。

私は長男であるので、いずれは両親を看なければならないし、子供のいない現実を考えると、ぬるま湯の環境を脱することも必要かと思い始めた。

いよいよ中途退職

当時は脱サラ・ブームであって、巷には脱サラ成功者の事例本が出版されていた。

脱サラで中途退職した事例も2、3知っていた。

脱サラの多くは、手っ取り早い金儲けが第1義であり、ラーメン店や喫茶店経営が多いようであった。

脱サラ成功者の評価基準は、サラリーマン時の2倍以上の年間所得を実現することであった。

私の夢は、多様な職場を経験して、自分の限界にチャレンジすることであった。

私には、失うものが少なくて比較的身軽であったこと、および、青年らしい甘い考え方からであった。

恵まれた職場にいて世間の厳しさを知らず、自信過剰で、脱サラ・ブームに夢を抱いていたのであった。

当時の脱サラ指南の本によれば、企業が安定するまでに10年の期間が必要だと言って、

逆算すると、脱サラ出来るのは35歳までだと書いてあった。

だが、退職を申し出るには勇気が要る。

大企業の中で保護されていた者は、余程の不満でも無い限り、容易に踏みきれるものではないだろう。

当然に、周囲からは異端者と視られ、何を血迷ったかと諭される。

先ずは、妻を説得した。

その後、直属の上司に申し出た。

しばらくして、周囲に伝わった。

同僚の目つきが違ってきた。

人事部長からも慰留する話が出された。

もう、後には引けない。

組合の同志には、賃金闘争で疲れたので、環境を替えて自分の人生にチャレンジしたい。

できれば、和・洋・中と異なった3食を味わう如く、3種の職業を体験してみたいと宣言した。

この意味は、民間の大企業・独立起業・公的組織を思い描いていた。

当面の目標は、防災設備の会社を起業することであった。

その為には、消防設備士の資格取得が必須である。

技術分野としては、電気工事、高圧ガス、弱電などである。

先ずは、電気工事会社に就職して、電気制御技術を習得したいと考えていた。



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初版日時: 2018-04-17 (火) 17:55:59
最終更新: 2018-10-11 (木) 19:43:51 (JST) (36d) by hikoichi